憲法解釈と宗教
憲法改正の話がさすがに冗談では済まなくなってきたので、きちんと勉強することにした。
芦部憲法と呼ばれるこの本が一番有名で、誰でも知っている名著らしい。
- 作者: 芦部信喜,高橋和之
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/03/11
- メディア: 単行本
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でも、細かいところの解説はないので、概略以上にきちんと知るには行間を読むような作業が必要なんだとか。
で、ググったら、時間のある人は渋谷先生のこちらの本のほうが良いというような情報も見つけた。
- 作者: 渋谷秀樹
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 2013/04/04
- メディア: 単行本
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で、どうせ時間があるので、こちらを読むことにしようと決め、買ってきた。それでパラパラと読み始めたのだが、最初のところで非常に面白いことを発見した。
序論第1項の1には「憲法解釈の方法」が書かれているのだが、この方法は宗教*1の教典を解釈する場合の方法とほとんど同じなのだ。ちょっと引用してみよう。(以下、渋谷秀樹『憲法 第二版』p.1より)
日本国憲法は成文法規範であるから,当然に,(略)条文にある文言が解釈論を展開するう上で,原点となり,出発点となる。文言に反する,あるいは文言とあまりにかけ離れた解釈はとることはできない。
このあたりが宗教と同じだとしても、まあ当然だという感じだろう。神から下された啓示を文字の形にした聖典が、解釈の原点であり出発点となる。この文言に反する、あるいはそこからかけ離れた解釈は不可能だ。当然のことだ。問題はこの後だ。
もっとも,文言があらゆる解釈学の出発点であるとしても,規範が文言に凝縮されて結実していった背景には,さまざまな事実や思想が存在する。文言解釈にあたって,その背景を無視する解釈は,憲法規範が歴史上の経験と人間が考案した思想を基礎として創り上げられてきたという経緯からして,とることはできない。
一般的に宗教は「歴史上の経験と人間が考案した思想を基礎として創り上げられてきた」物であることを自身は否定しているので、この場所に関しては多少当てはまらない部分がある。しかし、その他の部分はキリスト教であれば特にカトリック、正教で同じであり、イスラームでもある程度同じであると言える。
宗教の教えというものは聖典単体では完結していない。それが成立した歴史的な背景に関する知識や、それがどういう思想の元に発せられたのかという情報によって補完される必要がある。
キリスト教の用語で言えば、これは「伝統(聖伝)」だ。伝統の担い手は教会であり、イエスと共に暮らした使徒たちの言動であり、彼らの伝統がよく残っていたと考えられる古い時代の伝統的解釈でもある。イスラームの用語で言えばスンナ(慣行)であろう。クルアーンに明示されていない問題などは預言者や、彼とともに過ごした教友たちの言動をまとめたもの(ハディース)を元に解釈される。もっともこのとき、キリスト教では「解釈の方法」も伝統に含まれている一方で、イスラームでは教会のような組織が存在しないので、この「伝統」はあくまでも個々の事例であり、その解釈はそこまで厳密に規定されておらず、個々人に任される事もあるという点には注意が必要である。
余談になるが、こうした伝統をあまり重視しないのが、キリスト教でいえばプロテスタント諸派であり、イスラームでいえばサラフィー主義だ。彼らはそうした伝統を歪曲として、原典に直接当たるのを良しとする傾向がある。
他方,憲法の文言が人類の過去の経験と思想の投影物として存在するとしても,その文言が表す規範は今を生きる人間行動を規律するために存在するものである。そこで,現在の人間をとりまく客観的状況,そして現在に生きる人間の主観的思考に照らして,不合理で納得できない解釈をとることもできない。
このあたりも、近代以降の宗教のホット・イシューと言ってもいいだろう。近代以降に原理主義的言説が勢力を増してきた背景には、このような「現代への対応」の行き過ぎから生じた歪みを解消し、原点に立ち返るという思想があった。また、キリスト教にあっても現代への対応ばかりを意識することで
- 世俗の問題意識によって無批判に振り回されがちになった。
- 普遍的な人間の宗教経験を強調した結果、キリスト教を事実上宗教経験と同一視してしまった。
- その結果キリスト教を神中心であるよりも人間中心にした。
という批判も巻き起こった。
解釈とは,本来,文言の意味を客観的に認識する作業であるが,憲法の解釈は,解釈の実践である憲法判断の予備作業となり,憲法判断そのものは価値判断にほかならない。(以下略)
この場合、憲法判断は日常生活において、聖典において定められたルールのどれを重要視すべきか、どこまでなら妥協してよいか、に当たるだろうが、なるほどこれが価値判断だと言われると、その通りだろう。プロテスタント、イスラームの場合は神の前にただ一人立つ人間としてこれを自らの責任において選ばねばならないが、教会の働きを重視するカトリックや正教では、これも聖伝の一部として、教会生活の中で身に着けていくものになるだろう。
なるほど、憲法の出発点である所有権が、中東において神との関係の中で発展したという話は聞いたことがあるが、このようなところまで似てくるものなのだなあと思った。
*1:主としてアブラハムの一神教