MB13が摂取したもの

読んだもの、見たもの、食べたものなど、外から取り入れたもの全般についての感想を書いておくチラシの裏

哲学の入り口まで戻ってきた話

ずいぶんと長いことブログを書かなかった。
それはまあ、あまり本を一冊読み通すという事がなかったというだらしの無さもあるのだけれど、正直に言ってこうしたものを書くのは面倒であり、その面倒さに打ち勝つほど書きたいと思える何かとは出会わなかったからだと思う。

でも、昨年末ぐらいから、永井均の本と格闘を始めて、今ようやく、リングに立つことが許されるぐらいの位置に戻ってくることが出来たのだと感じた。この人の本は本当に面白いが、曲者で、僕の頭の中をずっと占領し続けてきた厄介な奴だ。



最初に読んだ時、何やらとても面白そうだと感じたが、分かる部分と分からない部分があった。特に、独我論の話は正直に言って難しく、理解に苦しんだ。

ところが何度か読んだり考えたりしているうちに、だんだんと「そういえば自分もこういったことを考えていたことがあった」と思い出すようになってきた。それはちょうど、この本で「本当に哲学が出来るのは15歳まで」と言われていた中学生ぐらいの頃であり、高校から大学と進んでゆくにつれ、どうしたことか、全く考えなくなっていた。

当時の感覚を思い出すにつれ、内容が分かりやすくなってゆくと同時に、大きな疑問が湧いてきた。
「本当は他人である永井先生には分かり得ないはずの、この『私』を、僕は永井先生の本を通して思い出した。これはどういうことなんだ?そしてなぜ、そんなことが可能だったんだ?」
これは本当に大きな衝撃だった。私の特殊性は他人である永井先生には分かるはずがないのに、なぜか、それも本の中の議論を通して、それを思い出させられてしまったのだ。なぜこんな事が可能だったのだろう?私にしか分からないがゆえに、そしてそれが存在するにあたって確たる理由も無いがゆえに私という存在が奇跡的ならば、その奇跡性を理解しうるのも私だけなのではないのか?にも関わらず、なぜその奇跡性が、他人の議論によって私に理解されてしまったのだろうか。

そういうふうに考えているうちに『<子ども>のための哲学』の最初に書かれていた話がなぜそんなところに書かれていたのか、そしてこの本がなぜ中学生向けなのか、という事がふと理解できたような気がした。つまりこの本は<子ども>の独我論的思考に対して「もっと素直に考えましょう」と返答したつまらない教師の返答の代わりに、「そうだね。でも、君も僕からしてみれば登場人物の一人に過ぎないんだよ」という事を懇切丁寧に言ってのけ、そうすることによって、(彼が言う本当の意味での)哲学に誘う本に違いない。

だから何?似たようなことが本文にも書いてあるじゃないか、と言われるかもしれないけれど、僕がこの意味を理解するのは、結構大変だった。それくらい、思想の陳列棚を充実させるのにかまけてしまうと、元に戻ってくるのに大変苦労する。だからこの本は、中学生がそうはならないように書かれた本なのだ。

なるほどと納得したと同時に、なんだ、哲学ってこんなに面白いと知っていたら、もっと前からやっていればよかったと思ったのだった。