MB13が摂取したもの

読んだもの、見たもの、食べたものなど、外から取り入れたもの全般についての感想を書いておくチラシの裏

『ソーネチカ』 リュドミラ・ウリツカヤ 新潮クレスト

読んだものいくつかスルーしてしまったが、戻って全部書こうとしたらウンザリしてまた書かなくなってしまうので、諦めることにする。

で、最近読んだソーネチカだけメモ。

若い頃から世界文学に慣れ親しんできたソーネチカが、自身に訪れる様々な出来事を、ただただ受け入れていくという話。

この作品の評価はソーネチカ(主人公)への評価そのものによってかなり変わりそう。プラスに評価すれば、彼女は文学作品などを通して得た超越的な価値観、つまり現世の細々とした損得に拘泥しないような価値観を持っており、世俗的な愛の次元を超えた神の愛の世界に生きているのだ、と言えると思う。しかし、見ようによっては文学オタクで容貌もぱっとせず自分に自信のない彼女が、文学作品という空想世界にのめり込むことで現実逃避を続け、厳しい現実と向かい合おうとしない消極的な話だとも言うことが出来る。

ウリツカヤはソーネチカの中でそのどちらの要素が強いのか、またそのどちらを正しいと思うのか、といった事ははっきりと言わない。おそらくはその両方が、それぞれ同程度正しいのであろう。そういう人間のはっきりとは割り切れない気持ち悪い感じを、どちらに肩入れするでもなく気持ち悪い感じのまま描き出したところに、ウリツカヤの才能があるのだと思った。

訳者である沼野先生はウリツカヤは現代のトルストイだと(別の作品に対してだけど)言っていたけれども、この点でキャラクターのはっきりとしているトルストイとは別の傾向であると思った。あとがきによればウリツカヤはプラトーノフをよく読んだらしい。それを読み、なるほど似たような気持ち悪さがあると納得した。

設定ゴチャゴチャでバッティングして泣く

何の準備もないまま思いつきで個人用ラップトップのOSをLinuxにして、エディターがEmacsになって以来、言語環境で大変に苦労している。
Emacs自体の操作は大学時代にある程度触れていたし、卒論も謎の反骨精神からwordではなくmeadowを使いLaTeXで書いた時に.emacsも色々といじったので、殆ど苦労していない。

ただ、ググってもとにかくEmacsで"多言語環境"を簡単に実現する方法が簡単には見つからない。
英語まで含めても、出てくる情報の多くは

  1. Emacsで非ラテン文字言語(日本語)を入力する方法
  2. アカウントを複数作成してアカウント毎にロケールを変え、多言語環境を実現する方法

ばかりだ。でも違うんだよね。いくら日本語英語以外の言語を使うからって、日常的にそれをメインで使うわけではない。アカウント毎にロケールを変えると言われても、それじゃあ多言語の混ざった文章を書くときは、単語毎にユーザーを切り替えるのか?そんな面倒なことはしないだろう。

何がしたいのか、とりあえずwindows環境を振り返り目標を定める

windowsではどうなっていたのか

  1. [半角/全角]で日本語と直接入力を切り替え
  2. [alt]+[shift]でキーボードの切り替え(日→亜→露→希→日)

ということで、これと同じ、もしくはこれよりも簡単な環境を実現するのが目標。
個人的な好みとしてショートカットをいくつも覚えていきなり動作を実現するよりは、たとえ3,4回押すことになってもひとつのボタンで済むほうが楽なので、その方向で。

とりあえずEmacsで日本語

僕の場合debianを日本語環境で入れたので、何もしなくてもC-\で問題なくanthyが起動。ただこいつはどうしようもないIMEなので、Emacsで日本語を入力するときにはanthyの代わりにmozcが使われるように.emacsで指定して、まずは快適な日本語環境の作成。

;; mozcを起動してデフォルトに
(require 'mozc)
(setq default-input-method "japanese-mozc")

emacs23からはわざわざload-pathを通さなくてもapt-getでmozc.elを入れれば/usr/share/emacs/site-lisp/に自動的に入れてくれるので、.emacsにゴチャゴチャ書かずに済む。ゴチャゴチャは嫌いなので、そちらのスタイルで。emacswiki以外のどこでもこのやり方がオススメされていないのは何か問題があるのかもしれないが、まあ個人用PCでユーザーは僕一人だし、堅いことはいいのではないか。(sudoしなきゃいけないからダメってことなのかしら?)

mozcのキーバインドgoogle日本語入力そのままという感じなので、ブラウザなどでは[半角/全角]での直接入力と日本語の切り替えもきちんと動くが、emacsではこれをやるとインプットメソッドが混乱し始める。具体的には、mozcになっているのに直接入力しか出来なくなったり、直接入力になっているのにmozcの変換が起動したりしはじめ、更に[半角/全角]に当てはめてある文字を認識しなくなったり、キーボードのセッティングが英語のものになって記号が変なところに移動したり、泣きたくなるような状態に陥る。勘弁してほしい。

どうやら/etc/default/keyboardで設定したキーボードのトグル設定ともバッティングして、よくわからないことになっている模様。
うーん、CUIでもロシア語を打つためにはそちらしかないのだけど、なかなか面倒なことになったなあ。

debian(wheezy) + xfce4

WinXPのサポートがそろそろ終了するし、思い切って俺のラップトップPCをlinuxにしてしまうかー
と無謀な事を考え始めたのが先週末。

linuxなんて大学のプログラミングの初歩的な授業で触ったことがある程度だけど、最近はあらゆる事が殆どブラウザで済んでしまうので、ブラウザでgmailニコニコ動画さえ表示できれば、まあ生きていけるだろうとの判断。

みんなwordがどうとかexcelがどうとか言うけれど、それって他の文章作成ソフトと表計算ソフトじゃいかんのか?

僕が使っているのは実に8年も前に買ったシングルコアのCPUを乗っけたオンボロPC。
毎日長時間使用していたので、壊れていないのが奇跡というレベルの代物。

だからまずは、なるべく軽くて、なおかつ僕の努力でギリギリ手に負えそうな範囲を見極めるところからスタート。
2ch、公式wiki(英語)、その他諸々のブログを読んで回って情報収集。(月曜くらい)

やっぱり初心者はUbuntuなのかなあ。昔触ったことがあるけど、確かに快適そうではあったんだよなあ。
でも最新のは重いっていうし…と悩みながら、試しにdebianのisoをダウンロードしてきてLivediskを作成し、DVDから起動。
あー、これこれ。こんな感じだった。なつかしい。
しかしこんな事しても何の意味があるのか、結局良くわからない。
色々悩んでいても先に進まない。僕はプログラマーでもないし、とにかく日常使用するのならば尖った所よりは安定性のほうが重要そうだとの判断で、debianの安定版を最小構成で入れてxfce4を導入することに。

さようならwindowsXP。君はなかなかいい奴だったよ。
きちんと分類しようと思ったけど面倒になったので、「書類」「画像」「デスクトップにあったやつ」ぐらいの大雑把な感じでwinのデータを外付けHDDにぶち込む。(火曜くらい)

debian(wheezy)を最小構成でインストール。
お任せだけど、きちんとパーテーションも切ります。(windowsでCとDを分けなかったことを後悔していた)
「ハードディスクの暗号化も出来るの!?スゲエ、ハッカーみたいだ!やっぱり暗号化すべきだよね〜」
と思って暗号化にしたら、HDDの内容をすべて上書きするからインストールにめっちゃ時間がかかるんだって。

数時間後にインストールは完了したものの、なぜか起動に失敗。
たぶん途中でキーボードの上に物を落としてしまった時に、何かをしてしまったのだろう。
(実家ではリビングからしか有線でネットに繋げないので、一日中不自由な所で作業していた)
もう一度、数時間もかけるのは勘弁なので、今度は暗号化せずインストール。
やったー、ログイン完了!CUIの構築には成功したぞ!(水曜くらい)

xfce4のインストールが完了。軽いけどショボいGUIって聞いたけどそうでもないね。
iPadで調べながら作業ができるので、こんな僕でも何とかなるものだ。
とりあえずchromiumを入れて、flashプラグイン*1も入れて、gmailニコニコ動画とkongregateを開く。
音が出ず、プラグインの関係かと焦って色々試したが、ミュートになっていたというだけのオチ。
いやGUIで最初から出来るように見せかけておいて、きちんと表示するよう指定しないと見えない項目がデフォルトでミュートになってるって、僕がwinで甘やかされていたのは認めるけど、ちょっと陰湿では!??

とにかくgmailニコニコ動画が快適に表示できたので生存が保証された。よかったよかった。
ついでにEmacsとか入れて、明日からこちらの設定をしていこう(木曜くらい)

キーボードの設定が意味不明で完全に詰む。
ネットで書かれている通りにやっているつもりなのに、僕の環境ではうまくいかない。
CtrlこんなところじゃEmacs使ってて小指が攣っちまうよ!!!タスケテ!!!
どうしようもないので2chで質問したら誰だか知らないすごい人が適切なアドバイスをくれて脱出。
2chマジすごい。(金曜くらい)

Emacsでtwittering-modeを入れてみたがうまく動かず。理由は不明なのでしばらく放置の方針。
日本語ロシア語英語がスムーズに入力出来ないか色々試して、なんとか完成。
それにしても、プログラマーでもないのにEmacs依存症みたいになってしまっている。
Emacsオーバースペックな感じがしたのでvimに移ろうかとも思ったけれども、面倒になってしまった。
相変わらずvimは、終わらせ方も分からない恐怖のソフトだ。
こんな状態にしてくれた、プログラミング入門クラスの先生方は許しがたい。(土曜)



結局一週間もかかってしまった。
趣味、遊びとしては相当面白く、コスパも良い部類だったと思うけれども、
使いたいってだけの人ならやっぱり素直にUbuntuだったと思う。

*1:重いから消えて欲しい

中村健之介『ニコライの見た幕末日本』

ニコライの見た幕末日本 (講談社学術文庫 393)

ニコライの見た幕末日本 (講談社学術文庫 393)


幕末に領事館付き司祭として函館へやって来た正教司祭ニコライは、将来的な日本での布教に向けて日本の歴史や宗教について研究した結果をレポートとしてまとめあげ、雑誌に投稿した。そのレポートを訳したものが、本書である。したがってザビエル書簡のような、日本の人々の様子を記したものよりは、学術よりの内容となっている。

彼は日本語の勉強もして日本の本を読み込んだらしく、歴史や宗教(仏教、儒教、神道)についての記述は結構な正確さを誇っている*1。彼は正教の司祭、つまりキリスト教が正しいと信じているし、進歩主義全盛の時代なので今の時代の我々から見れば同意しかねる見解もあるが、当時のロシア人が日本の首都でもない函館でここまでの知識をつけていたという事には舌を巻いた。

また、恐らく日本で本を読み込んだ為であろうが、日本人は庶民でも識字率が高く貸本屋の本を借りて読むのでどの本も手垢まみれでボロボロであり、自国の歴史についても詳しい等と日本人を正当に評価している面があり、宗教についても下手な現代日本人よりはよっぽど詳しそうだ。正教を布教しようという熱意に燃えての事ではあるだろうが、日本を頭から否定せず、まずはこれほど真摯に向き合ってくれていたのだと思うと、なかなかよい人が来てくれたものだと感動すら覚えた。

全体として良い本なのだが、その一つにして最大の欠点は、全体的に学問的記述が簡潔にして正確、言い換えれば教科書的で普通であるため、日本の歴史や宗教について少しは知っている日本人ならば、書かれていることの多くは既知のことで新しい情報は得られないという点である。日本に対するトンデモ解釈などを期待して手にとると、あまりに普通の事しか書かれていないので、挫折すると思われる。

もっとも、当時の函館で日本語の勉強から始めてその「普通」にまで到達し得た所が、彼の一番凄い所なのだけど。

*1:もちろん当時としては、という前提の元に

井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』

生き残った帝国ビザンティン (講談社学術文庫 1866)

生き残った帝国ビザンティン (講談社学術文庫 1866)

ビザンティン史に興味があったので、評価の高かったこちらを購入。
「1000年の歴史を新書で」という要求に応えて書かれたものらしく、おおまかな歴史はざっくりと理解することが出来た。扱っている年代が広く、もともとは新書であるから文量も大したものではないので、細かなところまでは扱われていない。

この本の主張では、一言で言えば、ビザンティン人は「本音と建前の使い分けが上手かった」故に1000年間も帝国*1を維持することが出来たのだということだった。ローマという建前の元に国家をまとめあげているが、ローマ的なものが現実にそぐわないと見れば捨ててゆく。こうした柔軟さを併せ持っていたところに、ビザンティンの強さがあったというわけだ。

ただしキリスト教についての見方には、やや疑問も残った。特に井上氏が異端の定義として掲げた「異端とは聖書に忠実な人々のことである」というのは、前の本音と建前の話と合わせて聞くと、誤解の残る表現であろう。まるでローマ法と同じく「自分たちに都合のいい解釈に合わせたいという本音に合わせて、キリスト教という建前を曲げた」と言わんばかりだからだ。

よく知られている通り聖書にはひとつの文章でも複数の意味に取ることが出来るような文言が含まれているが、そのような部分での解釈の違いが積み重なって大きな立場の違いを生じた場合に、それらを「どのように解釈するのが正しい読み方か」決定するのが初代教会から受け継がれてきた「伝統」であり、その「伝統」を知る者たちで行われるのが公会議である。したがって異端も正統も、どちらも聖書に依った議論をしているのだが、その中で聖書の文言を「文字通りの意味として解釈する」という意味で<忠実>だったのが異端であり、「それをどのように解釈すべきか」というろころまで含めて聖書とみなし、それに<忠実>であったのが正統である。

したがって両者とも、レベルは違えど<聖書>には忠実であるのだから、このような一般向け文庫本で何の前置きもなくサラリと言ってしまって良いような定義ではないはずだ。

*1:最後の頃は都市国家と化しているが

東アフリカの「怪談」?――ウガンダ東部アドラ民族の場合 梅屋潔 / 文化人類学

東アフリカの「怪談」?――ウガンダ東部アドラ民族の場合 | SYNODOS -シノドス-
一応拙いながら大学時代はイスラームの妖怪研究をしていた。そのなかでアフリカも気になって見てみたのだが、北アフリカは研究も進んでいるしイスラームの影響も大きいのでなんとかなりそうだったが、サブサハラになるとまるで混沌としており、あっさり諦めたということがある。だからとても興味深く読ませてもらった。

「死者とともに飲む」この宴では尋常ではない量の酒が消費される。何年もあとに行われるのは、多くの場合経済的な理由からである。開発の専門家のなかには、このルンベ儀礼での浪費こそが、この地域がいまだ低開発であり、貧困から脱却できない大きな原因である、という者もいる。実際、彼らは支払いきれない花嫁代償と、支払いきれないルンベ儀礼の費用で首が回らなくなっているところがある。この後に、生前賞賛されるべき業績をあげた人物に対して行われるオケロ儀礼があるが、ここ数十年行われたことはないという。

いや弔いの儀だから仕方ないのかもしれないが、どれだけ飲むんだとw


こうした儀式は、故人の親類縁者がきちんと覚えていて行う場合の他に、不幸があった際などにシャーマンであるジャシエシが霊媒を行った結果、先祖の霊が「私はルンベされていません」と申告した場合によく行われるという。そして、ジェシエシによる霊媒の結果は多くの場合、この「ルンベが行われていない」になるのだそうだ。その理由としては

拡大家族で、系譜も移住や内戦などによって不明確だから、「何世代か前の先祖がルンベ儀礼をやってもらっていない」といわれれば、「そういうこともあるかな」と思うようだ。クライアントの立場から見れば、かなりの蓋然性があり、いうならば「当たる」のである。だから多くのジャシエシも「災因」をここにもっていこうとする。説明が破綻しようがないからだ。

墓や位牌のありかたが激変した現代日本人も、「大昔の先祖の位牌が正しく祀られていない」とか「墓参りはきちんとしているか」とか「仏壇や神棚に毎朝お参りしているか」などと占い師にいわれたら、多くの人がぎくりと思い当たるのではないだろうか。卑近な例だが、実態はそれによく似ている。

という説明がされていて、なるほどと思った。
皆さん墓参り、していますw?

『風立ちぬ』 宮崎駿

空いてから見ようと我慢していたのだが、我慢の限界に達したのでついに見に行ってきた。
個人的に、ジブリ作品の中ではベスト。宮崎駿の作品の中でも『風の谷のナウシカ』(漫画版)と並んでワンオブ・ザ・ベストだと言える。


風立ちぬ 劇場予告編4分 - YouTube

前評判通で聞くように、トトロや魔女の宅急便のような明るいノリが「ジブリ」なら、確かに「ジブリらしくない」作品だと言える。何も知らずに見たらきっと大きな衝撃を受けるだろう。それくらい、人が理想のために生きることの業の深さを、くっきりと描き出した作品だった。

彼の作品で同じくらい人間の業の深さを描き出したものは、風の谷のナウシカの漫画くらいだろう。テーマの規模などでやや異なる部分はあるが、どちらも「人間が理想のために生きる事の美しさと業の深さ」を主題としている。

漫画版『ナウシカ』が好きな人は見て損のない映画だし、『風立ちぬ』が好きな人は漫画版『ナウシカ』の方も楽しめるはず。